「ただいま……」朱莉は肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた。何とか気力で自分の部屋の扉の前に辿り着くと、鍵をと出してドアを開けた。するとドアを開けると同時にスマホにメッセージが届いた。相手は琢磨からであった。「九条さん……。電話しようと思っていたのに、先にメッセージが届くなんて……」朱莉はスマホをタップして画面を確認した。『朱莉さん、25歳の誕生日おめでとう。1日遅れになるけど、明日何かお祝いしよう』メッセージにはハッピーバースディのメロディーと、ケーキの上に乗せたろうそくがパチパチと燃えている動画が添付されている。「履歴書で私の誕生日覚えていてくれたんだ……ふふ。可愛い動画。わざわざ探して、添付してくれたのかな?」その姿を思い浮かべ、思わず朱莉の顔に笑みが浮かぶ。ここ何年も誕生日のお祝いの言葉は母からしか貰っていなかっただけに、朱莉は嬉しく思い、スマホをギュッと握りしめた。(九条さんて、本当に気配りが出来る人なんだ……だから仕事も出来て、翔先輩の秘書を務めていられるんだろうな……)でも……朱莉が一番お祝いの言葉をかけて欲しい相手からは……。「翔先輩は、きっと今頃明日香さんと一緒にいるんだろうな……」朱莉は寂し気に呟き、部屋に入ると琢磨にお礼と謝罪のメッセージを送ることにした。本当は電話の方が良いかもしれないが、京極のことを聞かれたくはなかったからだ。『九条さん。本日はご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした。誕生日のメッセージ、とても嬉しいです。明日からまたお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします』メッセージ内容を確認すると琢磨に送信し、次は翔に電話に出ることが出来なかった詫びのメッセージを送ることにした。『本日は、電話に出ることが出来ずに大変申し訳ございませんでした。明日、沖縄へ行きます。どうぞよろしくお願いいたします。明日香さんにもお伝えください』「……これでいいわね」翔にメッセージを送ると、朱莉はネイビーに水と餌を与える為にリビングへ向かった——「ネイビー。明日は暫くの間ケージの中にいないといけないけど、我慢してね」餌を食べているネイビーの背中を撫でながら朱莉は語りかけるのだった……。 その夜――朱莉の元に病院にいる母から電話が入った。誕生日のお祝いの言葉と気を付けて沖縄へ行くように母から言
今日は朱莉が沖縄へ旅立つ日である。朱莉は6時半に起きると、手早く朝食を取って準備を始めた。 その時、朱莉は2台のスマホに翔と琢磨、それぞれからメッセージの返信が入っていることに気が付いた。琢磨からは羽田空港で何か不明な点があったら連絡するようにと書かれており、翔からは気を付けて沖縄に来るようにと書かれていた。朱莉は翔からのメッセージを見て笑みを浮かべた。(翔先輩、少しは私のこと気にかけてくれてるのなかな……?)すると、再び朱莉の個人用スマホにメッセージの着信を知らせるメロディーが流れた。その相手は京極からだった。『朱莉さん、8時半にドッグランの前で待っていて下さい』短い文章で時刻と場所だけを指定してあった。そこで朱莉はすぐにお礼のメッセージを送り、出発する準備の続きを再開した—―—―8時半朱莉はジーンズ姿にTシャツ、上にブラウスを羽織った姿でドッグランの前で待っていると、すぐに京極がベンツに乗って現れた。「おはようございます、朱莉さん。お待たせしてしまいましたか?」「おはようございます。いいえ、たった今来たばかりなので全然待っていませんから大丈夫です」朱莉は頭を下げて京極に挨拶をした。「荷物はそれで全部ですか?」京極は朱莉の足元に置かれたキャリーケースに肩から下げたキャリーバッグを見つめる。「はい、これだけです。少ないでしょう?」朱莉は笑みを浮かべた。「あの……所で朱莉さん。そのキャリーバックの中身は何でしょう?」京極に尋ねられ、朱莉は眼を伏せると頭を下げた。「申し訳ございません。実はマロンを手放した後、あ、あのウサギなら……アレルギーが無いから大丈夫と主人に言われて……」こんな嘘が勘の良い京極に通じるだろうか?しかし京極はニコリと笑う。「別に謝ることはありませんよ。要するに御主人からウサギなら飼ってもいいと言われたんですよね?」「え……?」俯いて朱莉は顔を上げた。まさかあの京極が苦し紛れの嘘を信用するなんて。「信じますよ。他の人の言葉ならないざ知らず……僕は貴女の言う言葉なら何だってね」それはとても真剣な眼差しだった。「京極さん……」京極からそのような言葉を言われると、朱莉はますます罪悪感という鎖で自分が縛られていくように感じた。(どうしてこの人はここまで私を……?)人の良い京極に嘘をつくのは本当に心苦し
朱莉と京極は第1旅客ターミナルに来ていた。「あ、あの……京極さん。本当にもうここまでで結構ですから」朱莉はIT企業の社長という立場にある京極に自分のような者に付き添ってもらうのが申し訳なく、何度も断りを述べた。「いえ、いいんですよ。今はゴールデンウィーク期間中で、僕は暇人なんですから」京極は笑顔で言う。「ひ、暇人って……」(そんなはずは無いのに……。だってここへ向かう間も何回もメッセージや電話がかかってきて、京極さんは全て対応してきたのに)「それより朱莉さん。思った以上に道路が空いていたので余裕をもって羽田に着くことが出来たので、何処かで珈琲でも飲みませんか?」「は、はい」もう搭乗手続きも済んでいるし、荷物も預けている。世話になった京極の為に自分が出来るのは彼の要望に応えてあげることだろう……朱莉はそう思って返事をした。 2人で近くにあるカフェに入り、朱莉はアイス・カフェ・ラテを、京極はアイス・ティーをそれぞれ注文し、2人掛けの丸テーブルに座ると京極が話しかけてきた。「明るい日の光で朱莉さんを見て思ったのですが……朱莉さんの瞳はよく見ると黒では無く、ブラウンの瞳をしているんですね」「はい。実は父方の祖父がイギリス人なんです。もっとも祖父は早くに亡くなったそうで、私は会ったことも無いのですけど」すると京極は頬杖をつくと真顔で言った。「ふ~ん……だからだったんですね。朱莉さんが人並み以上に美しい容姿をしているのは」「え……ええっ!?」あまりの唐突な京極の言葉に朱莉は顔が真っ赤になってしまった。「そ、そんな大げさな……今迄一度だって誰からもそんな風に言われたことありませんよ」朱莉は慌てて下を向くとストローでアイス・カフェ・ラテを飲んだ。「そうなんですか? あの九条さんにも言われたことが無いのですか?」いきなり京極の口から琢磨の名前が出てきたので朱莉は驚いた。「な、何故そこで九条さんの名前が出てくるのですか?」そう、普通に考えればそこで名前が出てくるのは琢磨ではなく、夫である翔のはずなのに何故か京極は琢磨の名前を出してきた。「いえ。何となくそう思っただけです。深い意味はありませんよ」そしてニコリと笑う。「……」朱莉は黙って京極を見た。朱莉の方こそ京極の行動が謎で仕方が無かった。京極は背も高く、スポーツマンタイプに見える
明日香が入院している特別個室に翔、琢磨、明日香の3人の姿があった。翔と琢磨はそれぞれPCに向って仕事をしている。そして明日香は液晶タブレットでイラストを描いていたが、やがてペンを置くと伸びをした。「う~ん……やっと終わったわ」「明日香、仕事が終わったのか?」翔はPCから視線を上げると明日香を見た。「ええ。終わったわ、今回の依頼はゲラを早く貰えたのよ。だから余裕をもって読むことが出来たからね」「明日香は速読が得意だからな。1〜2回読み込むことぐらい簡単だろう?」翔が明日香の描いたイラストを覗きこんだ。そこには血まみれの人形を抱えた青白い顔の女性が廃墟の中に佇む不気味なイラストが描かれている。「うっ! あ、明日香……。今回のイラストなんだが……どんな内容の小説なんだ……?」翔は顔をしかめた。「ええ。呪われた人形を偶然手に入れてしまった女性に次々と襲い掛かる恐怖の世界を綴った小説よ。この作家さんは新進気鋭のホラー小説家らしいわ」「明日香のイラストは評判がいいからな。イラストレーターとして知名度も高いし。でもあまり無理に仕事をするなよ? 今は安静にしていないと……」翔は明日香の頭を撫でると、今迄無言だった琢磨が乱暴に椅子から立ち上った。「ちょ、ちょっと琢磨! 驚かせないでよっ!」「どうしたんだ? 突然」2人の問いかけに琢磨は乱暴に答える。「別にっ! そろそろ朱莉さんの乗った便が到着する頃だから俺はもう飛行場へ行くからな」どこかイライラしている琢磨の口調に翔は不思議に思った。「え? おい、琢磨。まだ到着までには1時間近くあるぞ? 何もそんなに急がなくても……」「あのなあ、この部屋にはどう見も俺はお邪魔虫だろう? だから早めに空港へ行って待ってるんだよ!」「あら、琢磨。気が利くじゃないの。でも本当の理由は違うんじゃないの? 朱莉さんから一度も連絡がなかったからイラついてるんじゃないの?」明日香の言葉に翔は琢磨を見た。「え? そうなのか? 琢磨」「う……!」(こ、こいつら……なんて無神経なこと言うんだ? 人の気も知らないで……!)琢磨は2人をジロリと睨み付けると明日香がわざとらしく肩をすくめる。「おお、怖い。朱莉さんは琢磨のこんな本性を知ってるのかしらね?」「うるさい! 明日香ちゃんにだけはそんな台詞言われたくないな!」
12時40分――朱莉を乗せた飛行機が那覇空港に到着した。荷物を受け取り、到着ロビーに行くとそこにはすでに琢磨の姿があった。「朱莉さん、こっちだよ!」琢磨が笑顔で手を振って朱莉に呼びかけている。先程までの琢磨とはまるで別人のようである。(とてもじゃないが、今の俺の姿をあの2人には見せられないな)「こんにちは、九条さん。御忙しい所お迎えに来ていただきまして本当にありがとうございます」朱莉は丁寧に頭を下げた。「いや、だって強引に沖縄へ呼んだのは俺達だから迎えに来るのは当然さ。それで翔なんだが……」「ええ。明日香さんに付き添っていらっしゃるんですよね? それは当然のことですから」「朱莉さん……」「それよりも九条さん。お電話できなくてすみませんでした。心配されましたよね?」朱莉は頭を下げた。「うん。まあ心配はしたかな? とりあえず歩きながら話そう。まずはネイビーを預かってくれるペットホテルへ行こうか」琢磨の言葉に朱莉はアッと思った。「そ、そう言えばホテルにはペットを入れてはいけないんですよね? すっかりそんなこと忘れていました。九条さん、本当に何から何まですみません」「ハハハ……そんなに恐縮しなくていいよ。朱莉さんはあまり旅行とか慣れていないんだろう? 分からなくても当然さ。俺が朱莉さんを呼んだんだから、任せてくれ」**** やがて2人は駐車場に着いた。「あの、タクシーを使わないんですか?」「ああ、沖縄の交通手段と言ったらレンタカーが一般的なのさ。ほら、これだよ」琢磨は白い軽自動車のミニバンをを指さした。「さあ、乗って」車に乗り込むと朱莉は車内をキョロキョロ見渡した。「うわあ……可愛らしい車ですね。私も免許を取ったらこういうタイプの車にしようかな」「そうだね。それじゃ出発しよう」運転しながら琢磨は朱莉の嬉しそうな横顔を見て思った。(良かった……この車にして)「この車は軽自動車だし女性向きの仕様だからいいと思うよ。車を買うときは俺に声をかけてくれれば一緒に選びに行ってあげるよ」「な、何を言ってるんですか。九条さん。私の車を買う為にお付き合いいただくなんてそんな真似させられませんよ。私なら大丈夫です。車位1人で選べますから」「そうか。それは残念だな」「え?」朱莉の反応に琢磨は焦った。(しまった! つい本音を口走って
ネイビーをペットホテルに預けた後、琢磨は次に朱莉の宿泊するホテルに向かうことにした。「本当に運が良かったよ。何とか那覇市内でホテルを1件予約することが出来たんだ。沖縄で一番宿泊施設が多いのは何と言っても那覇市だからね。立地条件もいいし、明日香ちゃんが入院している病院も那覇市内にあるから」ハンドルを握りながら琢磨が説明する。「明日香さんの具合はどうなんですか?」「実はあまり詳しく知らないんだ。ベッドの上で休んでいなければならないけど、仕事は出来るみたいだし」「え? 仕事……? 明日香さんてどんな仕事をしてるのですか?」「あれ? 朱莉さんはもしかして知らなかったのかい? 明日香ちゃんはイラストレーターなんだよ。おもに小説の表紙のイラストを描いているよ。以前は文芸作品が多かったけど、最近はライトノベルにも描いているみたいだね。後は……あ、そうだ。アプリゲームのキャラクターデザインも手掛けたことがあるって言ってたっけな?」琢磨の話に朱莉は驚いていた。「そうだったんですか? 明日香さんてそんなに凄い方だったんですね」(だから明日香さんはあんなに自信に満ちて綺麗なんだ……。それに比べると私は学歴も無いし、何かに秀でている才能も無い……。これじゃ翔先輩が明日香さんを好きになるのも当然だよね……)「どうしたんだ? 朱莉さん。もしかして疲れたのかい?」急に静かになった朱莉を気遣って琢磨が声を掛ける。「いいえ、大丈夫です。でも少しお腹が空いた……かも……」朱莉は真っ赤になって俯いた。「あ……! ご、ごめん! まだだお昼食べていなかったんだね。まあ俺もまだなんだけど……。それじゃ先に何処かでお昼を食べに行こうか。何がいい?」「私はどこでもいいですよ? ファミレスでも構わないです」「いや、わざわざ沖縄に来ているのにファミレスじゃ味気ないだろう? う~ん……」「あ、あのソーキそばはどうですか?」朱莉の言葉に琢磨は頷いた。「うん。ソーキそばか……いいねそれにしても朱莉さん沖縄は初めてなのにそのそばのこと知ってたんだね。 もしかして事前に調べていたのかい?」「いえ。京極さんに……」言いかけて慌てて朱莉は口を閉じた。(いけない、九条さんにあまり京極さんの話をしたら……)朱莉は今琢磨がどんな顔をしているかチラリと見たが、別に普段と変わらない様子の琢磨
「着いたよ、朱莉さん。今日から一応2泊3日でこのホテルに予約を入れてあるからね。……ごめん。こんなホテルしか空いて無くて」「どうしてですか?素敵なホテルじゃないですか」朱莉は車を降りるとホテルを見上げた。朱莉から見ると、このホテルの外観は十分立派に見えた。しかし、琢磨が宿泊している部屋は1泊15万円もするホテルなのだ。「あ、朱莉さん。朱莉さんが構わないなら俺の宿泊しているホテルと交換しないか? 実は今宿泊している部屋は五つ星ホテルでスイートルームなんだ。そこしか空いていなくて……」徐々に琢磨の声が小さくなっていく。(いくら、俺が宿泊する時にそこのホテルのスイートルームしか無かったからと言って自分ばかりあんな高級ホテルに泊まることなんか許されないだろう。朱莉さんが宿泊するのは1泊1万5千円の部屋……。これじゃまるで翔と明日香が朱莉さんにしてきたことと一緒じゃ無いか……)「よし。そうしよう。今からホテル側に交渉すれば多分大丈夫だから」「九条さん……」朱莉は琢磨の申し出に驚いた。朱莉からすれば1泊1万5千円だって、十分過ぎるのだが、琢磨はそうは思わず申し訳ない気持ちで一杯だったのだ。「な、何を言ってるんですか? 私はこのホテルで十分ですよ? それじゃ中へ入って取りあえずチェックインの手続きを済ませてきますね」「ああ、俺も一緒に行くよ」そして2人でフロントで宿泊手続きをすると朱莉は琢磨に声をかけた。「では九条さん。部屋に荷物を置いてきますので、ここのロビーで待っていていただけますか?」「分かったよ。それじゃ待ってるからね」琢磨は朱莉を見送ると、ロビーのソファにドサリと座ってスマホをタップした。すると翔からメッセージが届いていることに気が付いた。早速琢磨はメッセージを開いて見た。『朱莉さんとは合流出来たか? 挨拶がしたいから、夕方にでも彼女を明日香の病室まで連れて来てくれないか?』それを見て琢磨は思わず自分の気持ちを声に出してしまった。「ああ!? こっちはこれから朱莉さんを連れて不動産屋に行って、賃貸マンションの契約を交わさなければならないんだぞ? それに食器類や日用生活雑貨を買い揃えないとならないのに!」イライラしながら、琢磨はその旨を綴ったメッセージを書いて返信するとすぐに翔から電話がかかって来た。「もしもし、何だ、翔?」『琢磨、
「え? 翔先輩から病院へ来るように言われたんですか?」部屋に荷物を置いて琢磨の元へ戻って来た朱莉に、翔から先程言われた事を一応琢磨は報告した。「ああ、そうなんだ。全く翔は……」「分かりました。病院へ行きます」「え? ええっ!? 本当に行くのかい?」「はい、翔先輩が私を呼んでるんですよね? それに明後日には九条さんと翔先輩は東京に戻ってしまいます。明日香さんは今絶対安静ですよね? そうなると着替えや洗濯とかのお手伝いがこれから必要になると思いますので」「え? 本気で明日香ちゃんの世話をするって言うのかい?」琢磨には信じがたいことだった。(朱莉さんはあれ程明日香ちゃんに嫌な目に遭わされてきたのに。それでも明日香ちゃんの世話をするっていうのか……?)「九条さん、それでは早速行きますか?」朱莉は琢磨を見上げた。「い、いや。それなら病院へ行く前にまずは先に不動産屋へ行こう。実は朱莉さんがこれから住むマンションをもう決めてあるんだ。だから手続きに行かないとならないんだよ」「そうなんですね? 九条さん、お忙しいのに私の為に本当に何から何までお世話になりっぱなしでありがとうございます。でも、これからは沖縄と東京で離れた生活になります。なので今後は九条さんのお手を煩わせないようにここで明日香さんが無事出産するまで見守って行こうと思います。それに、ひょっとすると……」朱莉はここで言葉を飲み込んだ。「朱莉さん? ひょっとすると……って何?」「え、いえ。何でもありません。それより翔先輩と明日香さんが待ってるんですよね? 早く不動産屋へ行きませんか?」朱莉はパッと顔を上げて琢磨を見た。「あ、そ……そうだね。それじゃ行こうか」琢磨にはそれ以上聞く事が出来なかった。何故なら一瞬朱莉が泣きそうな表情をしているのを見てしまったからだ。朱莉を車に乗せて運転しながら琢磨は朱莉の様子を伺うと、南国の景色を楽しんで見ている。そんな朱莉の横顔を見ながら琢磨は思った。(朱莉さん……一体今何を考えているんだ?)車が国際通りに入ると朱莉は目を見開いた。「うわあ……。何だかここは随分賑わった場所ですね」「ああ、ここは国際通りって呼ばれてるんだよ。商店街が沢山立ち並んでいてね、観光客で溢れかえる場所だよ。食べ物屋さんやお土産屋さんまで何でも揃っているよ。沖縄土産なら、この
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう